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1945年8月6日 午前8時15分
昭和 20 年 (1945)8 月 6 日、原子爆弾により広島市は 壊滅する。眞光寺では、住職慶哉をはじめ坊守貞子、 寺族計 5 名が死亡した。過去帳に記載された眞光寺門徒の原爆死没者は、8月6日のみ で296人、8月末までに423人、 その年の内に500人に達している。本堂・庫裡・鐘楼・山門等 の建物も全壊焼失したが、御本尊・過去帳等の重要な宝法物は、疎開してあったため焼失を免れた。
慶哉の長男淳信 (1928-2000) は当時、龍谷大学予科に在学中で京都にあり被爆の難を逃れたが、学生であったため、安芸郡江田島村(現在の江田島町)教法寺住職、鷹谷俊城が住職代務となり、安芸高等女学校の教頭であった多賀谷景尚 (1906-1999) が留守役に就任して、寺務を執った。
街も次第に復興し始めた昭和 25 年 (1950)、本堂再建の募財と建築が開始され、同 26 年 (1951)8 月に完工した。募財が目標に達せず、土地を売却して建設費を補填するなど、戦後の混乱の中での復興には非常な困難があった。
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